2011年7月29日金曜日

滞在三日目

滞在三日目 7月28日

朝起きて、8時半ごろ食堂に降りて行くと三宅島商工会女性部のみなさんが30、31日に行われるお祭り「マリンスコーレ」の郷土料理コーナーで販売する料理の下ごしらえをしていました。


以前の「あしたばん」で特集されていた"大久保浜のサックスおじちゃん"の妹さんが居て、いろいろと教えてくれました。
いま作っているのマリンスコーレに毎年出しているもので、「うまかか棒」と「ムロッケ」と名付けられた料理でした。このようなイベント(トライアスロン、バイクレース、川越まつりなど)がある時は、毎回女性部の皆さんが駆り出されて料理を作るそうです。
「うまかか棒」というのはムロアジのすり身に人参、ゴボウ、レンコン(噴火以後島内であまり採れなくなった筍の代わり)と味噌を練って手のひらサイズにして揚げ、竹串に刺したもの。
「ムロッケ」というのは、ムロアジのすり身で作ったコロッケです。
数年前、川越祭にこれらの料理を出品する際に名付けたそうです。
去年まではところてんもやっていたみたいですが、今年は女性部の人手不足のため見送ったそうです。

これがムロアジのすり身。くさやのお店で作っているものです。





まずはこれをよくこねて味噌を混ぜます





この作業ぼくもやらせてもらったんですが、すり身が冷蔵庫に入っていたため、とても冷たくて手の感覚がなくなってしまいました。見た以上にきつい仕事です。冬場は手を温めながらやるみたいです。

ごぼう




にんじん


レンコン



これらを混ぜてこねます。




まぜおわったら重さを量りながら手に取り、形を整えて並べて行きます。





そしてこれを揚げればうまかか棒の完成です。






これらの作業が終わる頃には12時近くになっていました。みんなでお昼ご飯を食べました。


このとき女性部の方が避難中の生活について話をしてくれました。
彼女は避難中国立に住んでいたらしく、僕の出身校であるムサビの場所も知っていました。国立には70世帯くらいいた。都内で他には桐ヶ丘、港南、高砂、竹の塚、南大沢、立川、府中などに散らばって生活していたそうです。ほとんどの人は都が用意した都営住宅に住んでいました。
噴火してからの東京都の対応は手早く、みんな割とすぐに避難先が決まり、三宅に居るうちから避難先が決まった人も居て、そういう人は荷物を先に送っていました。
避難先での仕事も東京都がかなり探してくれた、とのことです。また冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコン、電気釜、下着、鍋、ドライヤー、ヤカン等も用意されたそうです。
避難先に支援センターが作られたところもあってそこに行けば三宅島の情報が手に入り「三宅の風」というペーパーがファックスで送られてきて、そこからも知れたそうです。
島民が全員近いところに移住できればもっとよかったんだろうけど、逆に何カ所かに散ったことによって、それぞれが知り合いをつくって、それをみんな紹介しあって人のつながりができた、というメリットもあったそうです。

「今回の震災は(自分たちと重なる部分があるけど)、規模が全然違うからねえ」とその方は話していました。

当然の事だったんですが、この話を聞いてぼくは「避難」するだけで済むわけが無く、その先に生活があったんだなあと気付きました。
「島での生活→噴火→避難(移住)→本土での生活→帰島(島での生活の再構築)」という流れを島民ほぼ全員が経験しているのです。これは面白い話をそれぞれの人がたくさん持ってるに違いないと思いました。
それぞれ本土でどういった5年間の生活があったのか、とても気になるところです。こういう話は島民同士の日常会話では(特に帰島当時はたくさん)なされたと思いますが、島外から来た僕も聞いてみたいと思いました。避難中の生活だけではなく、島での生活の話も含めたそれぞれの物語が聞けるような、座談会のような場を、昨日の日記で述べた「生活のプラットフォーム "家"」の中で設けられたら面白いと思います。


あと、今日は坪田の理容室「髪や」で髪の毛をきりました。
before



















after


だいぶさっぱりしました。

村上慧

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